魚偏に◎という字があるらしい。
これでちくわと読むらしい。誰かがふざけてつくった文字なのだということなんだけど。でも、今ではかなり認知度が高い。文字鏡にも「漢字」として登録されている。
「絵文字は漢字になりうるか?」
livedoorニュースにそんなタイトルの記事が載っていた。最近、絵文字を使う人が多くなった。いつか、絵文字も正式な文字として認識されるような日がくるのだろうか。最近じゃ、小説にも顔文字や❤が使われる時代だ。❤や♪なんかは、もう、すでに絵文字の領域だと思う。
ボクは、絵文字を正式な文字として取り扱うというのも、それはそれでいいと思うんだけどね。想像力が欠如するとか、微妙なニュアンスが表現できなくなるとか、いろいろな意見はあると思うんだけど、でも、絵文字によって育まれる想像力とか、微妙なニュアンスもある。だから、柔軟な発想でやればいい。ボクは多分、ケータイ以外では絵文字は使わない。でも、それは書き手の側に取捨選択の権利が与えられるだけの話だ。
だがしかし。だがしかし、だ。それ以上に、ボクとしては、本来の漢字をもっとずっと大切にして欲しいよなあと思う。そっちの方がずっとずっと大事。たとえば、海の水が「からい」というようなときには「辛い」じゃなくて「鹹い」を使いたい。「よろこぶ」だって四種類の漢字があって(もっとあるかもしれないけど)、それぞれ意味やニュアンスが違う。「みる」だって、今じゃ、「看る」や「視る」を使う人って、ほとんどいないんじゃないかなあ。岩波文庫なんか読んでいると、知らない漢字がたくさん出てくるんだけど、でも、明治や昭和初期の作家は、敢えて選んでその漢字を使っている。この使い分けって、非常に重要だと思う。
最近、同訓異字語の使い分けは意味がないという向きの考え方の人も多くなっているらしい。辞書によってもばらつきがあるし、正確な使い分けのルールが決まっていないんだから、使い分けすること自体がナンセンスだという。まあ、ね。そうなのかも。でも、どの漢字を採用するかは書き手の裁量だ。あとは、その書き手が選択した微妙なニュアンスを、読者が感じ取れるかどうか。
ボクは感じ取りたいと思う。だから、極力、漢字の勉強をする。感じ取りたいと思う人間が、もっと増えればいいなあ。だから、絵文字よりも今ある漢字の方を大切にしたいよなあ。